NGO SESCO 論考 NO.36号 ジョン・G・フラー『熱病』再読

 龍谷大学落合雄彦教授に誘われてナイジェリア研究会に4月15日ZOOM参加した。今回の主題は上田文氏(関西学院大学非常勤講師)の「日本のアフリカンプリント生産とナイジェリア ―アレワ紡績株式会社(AREWA TEXTILES LTD)を通して― 」である。筆者は1980年10月から1983年9月まで副社長として駐在した経緯からコメンテーターを務めた。当日は上田先生から はじめに 機械捺染 ①アフリカンプリントとはワックス・プリント、カンガ ②日本のアフリカンプリント生産と輸出 ③商社の役割 ④「アフリカx日本 アレワ紡の時代 ― ナイジェリアと日本の繊維産業 1963-2005」展覧会の紹介 おわりに ナイジェリアにとってのアレワ紡が語られた。


 筆者のコメントは ①ナイジェリアは、ベニン ニジェール チャド カメルーンに囲まれ面積は日本の2.5倍 乾季と雨季 人口2億2.5百万 農業78% 国家財政の80%は石油収入。 ハウサ ヨルバ イボ3大部族 他250トライブ。1960年10月独立し1979年10月に民政移管初代大統領A.S.Shagari。首都アブジャに遷都。 ②アレワ紡績は1963年設立 資本金27.5億円 1965年生産開始 紡機5万5.2千錘 織機1.77千台 ナイジェリア綿花 紡績 織布 加工(染 晒 プリント)一貫生産 月30万ヤード。1981年駐在時 従業員3756人(日本人25名)売上高月約10億円。 給料未払い事件(中央銀行から現金が工場へ届かず日本人への投石、暴動の顛末) ③カドナの生活 マラリア ナイジェリア人を語る時、時間の観念がない「私」が「公」に優先する。秘密警察署長とブラックメール(日本人排斥)の対応。スーパーマーケット、闇市・ビール空瓶 マラリア予防薬(キニーネ、ダラプリン)蚊帳・シェルトックス。1982年12月チャド湖探訪( 道を失う不安、禿鷹の恐怖 )2泊3日2500Kmの小冒険。1983年1月政府は、失業対策、治安維持を目的に不法外国人(ガーナー トーゴ チャド)200万人週内追放。偶々ラゴス港の光景を目にしたが、民族大移動 出港船の「人が鈴なり」スペクタクルに驚愕した。

 さて、この機会に1980年赴任時前に義兄(医師)が送ってくれた『熱病』を取り上げたい。先述の通りカドナに3年間駐在したがその間3回ジョス高原へ行った。高度高くナイジェリアの避暑地として涼しい場所とされている。が、「ラサ熱」の激戦スーダン・インテリア・ミッション病院に立つと『熱病』の現場実感、興味深さを覚えたものだ。(後述)
本書の目次は次の通り構成されている。
1悲劇の幕開け 2相次ぐ死 3ニューヨークへ患者空輸 4組織培養実験と動物実験 5恐るべき新型ウイルス 6殺人ウイルスの正体 7健康警告書 8黄熱病の蔓延 9エール大学研究中止 10一粒の麦 11初発病者追跡 12勝利、そして闘いはなおも

 本書解説によれば、「1969年、正体不明の熱病として初めてアフリカに発生、世界を震撼とさせた。そして七年後、ついに日本でもアフリカからの帰国者に感染の疑いがもたれ、緊急隔離されるという事態が生じた。どこかにひっそりと潜伏し、皮膚から、あるいは飛沫から人体の内部に侵入する殺人ウイルス。ラサ熱に感染した患者は二週間の潜伏期間を経て発病、軽症の場合は比較的軽い発熱で回復するが、重症の場合は筋肉痛、不快感を伴い、皮下出血、咽喉炎を起こして高熱の内に、発病後十日ぐらいでショック死する。40~50パーセントという恐るべき死亡率で、現在のところ、特効薬も治療方もない。そのためWHO(世界保健機機構)はペストより恐ろしい伝染病として重要視し、日本においても厚生省が『ラサ熱対策小委員会』を発足させ、この熱病を臨時の法定伝染病に指定した。本書はラサ熱が世界で初めて発生したナイジェリアを舞台に、五年に渡りラサ熱ウイルス研究に命を賭した医師団の苦闘の記録である。」第9章エール大学研究中止では、ジョス高原の医師達がラサ・ウイルスに食い荒らされ5人のアメリカ人の内3人が死亡した。血液検査の為ナイジェリアから持ち帰ったエール大学ウイルス研究所の恐怖は危険の剣がぶら下がっていた。フィラデルフィア・ウイルス研究所、アトランタCDC免疫病原体実験室、ナイジェリア・イバダン大学のウイルス研究所など連携経過、展開は恐怖のノンフィクションである。


 また、訳者あとがきには、「西アフリカ一帯に死の疫病として猛威をふるった『ラサ熱』ウイルス発見までの追跡記録である。ウイルスの正体もつかめず、感染経路も謎に包まれた病原体の追跡は、危険率が高い。その上熱病発生リアのラサは聖職者の奉仕活動が唯一の文明への窓口であり、医療整備も貧弱地ナイジェで、罹病者は迷信と死を恐れるあまり、入院するさいにも偽名をつかう。このような状況での治療と調査、追跡は困難を極めた。」「現地の伝道看護婦と医師は死に直面しながらも、緊急裡に献身的な努力を続け、犠牲者の血液標本を空輸で米国アトランタの疫病対策センターに運んだ。そして、世界でもウイルス研究の最前線にいる学者グループの手で本格的な研究追跡が展開されるに至った。」未知のウイルスと対峙しながら極限の中で進められるこの状況はまさに手に汗を握る圧巻である。
 
追記:「アレワ紡の時代」15分のビデオを作成。「大城盛次 YouTube ナイジェリア 深尾幸市」で検索、ご覧頂ければ幸いです。

アレワ紡 玄関 左筆者 1983年
アレワ紡社長室 前列左ナイジェリア和智一夫駐日大使 右市川幹雄一等書記官 後列左三池敦之社長 右筆者
『熱病』 2023.4.
ジョス高原へ向かう 1981年
アレワ紡展示会 所蔵品

 

2023.5.10
NGO SESCO 副理事長 深尾幸市

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