NGO SESCO 論考 NO.32号 デユッセルドルフの思い出

 新年あけましておめでとうございます。本年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。

 高齢になると思い出を書き残したくなります。NO.20に「ロンドンの思い出」 NO.27に「パリの思い出」を記載しましたが今回は3年間駐在した「デユッセルドルフの思い出」。

1984年10月デュッセルドルフ( Dusseldorf )へ赴任し、読売新聞「世界の街角」に掲載された拙文から。

「・・着任時にだれもが苦労するのが家探しと家具の調達。(中略)借家には家具附きとそうでないのがあり、後者には全く何もない。電気も天井から裸線がのぞいているだけだし、勿論台所の流しもない。家具センターに足を運んでも入手するまでに4~6週間はかかる。なんとか早くと交渉してもダメなものはダメで、このやり取りには、本当にドイツ人気質を思い知る。この“待たされる”生活にまずなじまなければ始まらない。」懐かしい。

 さて、デュッセルドルフはノルトライン・ヴェストファーレン州の州都でベルギー、オランダと接している。人口は62万人(2019年)で、州政府、州議会のほか、ドイツの鉄鋼、機械、エネルギー分野の主要企業の本社がある。また経済団体、労働団体、工業団体や外国企業の支店が多い。ヨーロッパのほぼ中心に位置するという有利な立地条件にもある。

 1980年代のデュッセルドルフ日本人クラブの会員は約8500人であったが、2022年6月時点では約2700人と法人208社に減っている。日本企業の盛衰を表わしていると言えようか。(現在はコロナ禍の影響があるかもしれないが)。私の仕事は欧州の全般的な情報収集と短繊維、スパンボンド、フイルムの販売促進に加え本社、取引先の来訪者のアテンドが主な役割であった。住んでいたのは隣街ライン河の近くメアーブッシュ。広い裏庭には小鳥がさえずり兎やリスが訪れた。冬は零下10度となる時もあり時々の雪掻きには結構苦労した。家の前で誰かに怪我でもされたら補償が大変と大家さんに忠告されたから。日本からの来訪者も多く、また親しい家族間お互い持ち回りのパーティーも週毎末に開催していた。

 街の案内をしよう。旧市街(Altstadt)。“ドイツで一番長いカウンター”と呼ばれ、200軒以上もあると言われるレストラン・カフェ・バー・パブ・居酒屋が並んでいる。地ビールのアルト(Alt)は慣れると止められない。とりわけ夏の夕方、微風に吹かれて野外でのビールはたまらない。マルクト広場のヤン・ウェレム騎馬像、ハイネの生家、仕立屋の時計台など見るものも多い。特筆すべきはケーニヒスアレーである。通常“ケー”と呼ぶ“王様の通り”はマロニエの並木が美しくニューモードを始め毛皮、絨緞、銀器、陶器、宝石、刃物、骨董、美術品など有名店が軒を連ねている。クリスマスシーズンのバーゲンセールは待ち遠しい(終わると元の値段に戻る)。カフェに座り、マンウオッチングを楽しんだ。広大な庭園ホーフガルテンは市民の憩いの場でもある。イェーガーホーフ城、ゲーテ博物館などがある。ライン河畔のコンサートホール・トーンハレーでの音楽会は時に気取ってタキシードで出かけた。

・しばしば出掛けた近隣3都市。

ボン( BONN )

 1979年2月大雪のためデユッセルドルフ空港に着陸出来ずケルン・ボン空港に到着し、バスで移動したのが最初のデュッセルドルフ行きであった。ボンは1949年に西ドイツ連邦共和国の首都となったコンパクトな街。ミュンスター教会、K.マルクスが学んだボン大学、少し歩いてベートーベンの生家がある。使っていたピアノ、ラッパ形の補聴器、自筆の楽譜などが展示されている。

ケルン( KOLN )

 自宅から車で20分、ライン河の辺りにゴシック建築の尖塔、大聖堂(Dom)が天高く聳えている。高さ157m、奥行き144m、幅86mあると言う。一度最上階まで歩いて登ったが結構大変だった。着工後完成するのに600年かかったと言われる気の遠くなる話。パイプオルガンの堂内に響く音の厚みは素晴らしい。柱に飾られているキリスト、聖母マリアの使徒たちの像は1300年代の作と言われる。ドームの南に復元された旧市庁舎と新市庁舎が並ぶ。

アーヘン( AACHEN )

 西暦800年にカール大帝が都を置いたのがアーヘンだ。デユッセルドルフから南西へ車で1時間半、ベルギーの国境近くに中世ゴシック八角形丸屋根を持つアーヘン大聖堂(世界遺産)。アーヘン工科大学や温泉街としても知られている。良い街だ。

・河 / 川では

ライン( Rhein )河

2000年の昔から北海―ケルン間の水運を利用して交易が行われてきた。ライン河は全長1,300kmある。両岸の名所旧跡・城の数は数えられない程あり、マインツ、リューデスハイムの対岸ワイン祭りで知られるビンゲンのねずみの塔、ラインきっての難所ローレライ、ザンクト・ゴアスハウゼンから‘岩に住む美女’を訪ねてみたが会えなかった。更に下って猫城、ねずみ城、マルクスブルグ城、やがてコーブレンツ。一度日本人会の催しでライン下りに参加、ボンまでの30kmほどであったが宮沢日本大使も来られて大いに盛り上がった。家から歩いて7~8分でライン河へ、時々散歩に出掛けた。ドイツに居ると実感した。

モーゼル( Mosel )川

私がドイツの中で最も気に入っている一つがモーゼル川流域である。コーブレンツからトリアまで約600km更にその先のルクセンブルグの街も美しい。出発点はモーゼル、ラインの合流点コーブレンツ。少し進と両岸の急斜面に綠のブドウ畑が現れる。蛇行する流れの岸辺に次ぎ次と古城が現れては消える。川面には遊覧船や小舟が静にすべって行く。エーレンブルグ城、エルツ城、コッヘム城、マリーエンブルグ城と何処までも続いている。やがて待望のベルンカステルへ。中世の佇まいを残す中央広場に木骨組み建築の家、川縁にはワイン酒場が並び賑やかだ。

・シューマン ( Robert A. Schumann )の自殺

 1810年生まれのシューマンがデユッセルドルフの音楽監督として移住したのは、1850年の事であった。此の年交響曲第3番「ライン」やチェロ協奏曲を多数作曲した。シューマンには師匠フリードリッヒ・ヴィークの娘で名ピアニスト クララとの恋愛事件はよく知られている。1954年躁鬱と音楽監督時の精神的疲労に加え、羅漢した梅毒に起因される精神障害が悪化して2月にデユッセルドルフのライン河に投身自殺を図った。助けられたがボンの近くの精神病院に収容されるも思わしくなく、1856年7月に46歳で亡くなった。

・ドイツワイン

ドイツは高緯度なため日照時間が少なくブドウ栽培に向かない。が、ライン河とモーゼル川のおかげでワイン生産国になっている。川に面したブドウ畑に川の日光反射を利用して日照量を補っているから。品質は糖と酸が詰まった甘口ワインが主流である。赴任直後に薦められたフランケン(ボックス・ボイテル=俗に山ヤギのキン玉という独特の丸いビン)がトロッケン(辛口)として知られ、今でも愛飲している。ブドウ栽培11地域は、バーデン、ラインプファルツ、フランケン、ヘッシシェ・ベルクシュトラーセ、ヴュルテンベルク、ラインヘッセン、ラインガウ、ナーヘ、ミッテルライン、モーゼル・ザール・ルーヴァー、アールである。近年は温暖化と政府の施策で赤ワインが60%まで増えたとも聞く。特に白ワインは世界的に評価も高い。ライン河沿いの町リューデスハイムやマインツ、モーゼル川流域のコツヘムや先述のベルンカステルへしばしば訪れ「ベルンカステルキュス ドクトル・グラーベンQbA」が気に入り飲んだ。日本ではなかなか見つからないけれど。 

 最後に三人。親切だった大家 故R.Stuhrman。良く協力して呉れた秘書Frau A.Menne、ドイツ語の家庭教師 Frau G.Engelsはどうしているだろう。

 2023.1.10

NGO SESCO 副理事長 深尾幸市

デュッセルドルフ・ライン河 Wikipedia から
モーゼル川・コッヘム 1987年 春
我が家でパーテイー 1987年 9月
ハンブルグ 1986年

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