NGO SESCO 論考 NO. 13 黒いサムライ ヤスケ

NGO SESCO 論考 NO. 13
黒いサムライ ヤスケ

ニューズウィーク日本版2021年6月8日号の「Life / Style History」に「アニメの10倍面白いヤスケの物語」と題しネットフリックスが配信したオリジナルアニメ『YASUKE- ヤスケ』を取り上げている。

副題に「主人公『黒いサムライ』は実在した人物呪術やメカの要素を加えなくても想像力を刺激してやまない」とある。「これは空想の産物の寄せ集めだ。呪術師、邪悪な宣教師、時空を超えた怪奇な悪役などが入り乱れる。多くの血が流れ珍妙な解釈の武士道が説かれたりもする。歴史物というより、生煮のごった煮のような作品だ。」

一方「排外主義と戦う弥助」という設定は面白いがストーリーがそれて超能力少女咲希を中心にして逸れる。結局、「黒いサムライは日本に来てから約400年間、人々を驚かせ興味をそそり、魅了してきた。これからも100年、いや500年にわたりクリエータをてこずらせ、触発し続けてほしい。」


もう3年前になるが『教育PRO』2018年3月6日号の<この一冊>書評欄にロックリー・トーマス(Thomas Lockley)の『信長と弥助』取り上げた。その一部を加筆削除修正して再掲する。著者は日本大学法学部専任講師。歴史・日本史。イギリス出身。


アフリカに深い関心を持つ筆者(深尾)にとって、初めてアフリカへ行った日本人は誰か。初めて日本にやって来たアフリカ人は誰か。特に後者について標題、興味深い著書が出版された。「信長が愛した黒人侍、その生涯の謎に挑む」、「異色の黒人侍、弥助。その知られざる生い立ちから来日にいたる経緯、信長との出会いと寵愛、本能寺後の足取りまで、詳細に踏み込んだ歴史ノンフィクション。」本能寺の変からさかのぼること3年前の1579(天正7)年7月にイエズス会の宣教師一行と一人のアフリカ人従者が島原半島先の港に着いた。各章に興味深い仮説・推論や数少ない資料の紹介に面白いものが見られる。が、最も重要
な第5章「弥助はどこから来たのか」に絞って見てみたい。


・弥助の出身地
信長の家来になる以前について、判っていることは、フロイスが書簡で“カフル”と呼んでいたことから、アフリカにルーツを持つこと。太田牛一の記した推定年齢により、1555年ごろ生まれたこと。真っ黒な肌をして礼儀正しく、ハンサムで、背が高く強靭な体格だったこと。“弥助”と呼ばれ、人生のどこかで奴隷だった時期があると。


・第1の可能性①―イタリアアレツサンドロ
ヴァリニヤーノはナポリ王国の高貴な生まれでイエズス会の宣教師とはいえ、従者を連れて旅をしていただろう。故に弥助がヴァリニャーノ本人か、彼の家に昔から仕える従者だった可能性がある。
第1の可能性②―ポルトガル武器を扱う奴隷よりも、アフリカ大陸からインド洋を隔てて売買された奴隷である可能性の方が高い。

・第2の可能性―現在のモザンビーク
弥助がモザンビークで生まれた可能性は充分ある。ヴァリニヤーノは1574年モザンビーク島に寄港しており、奴隷貿易が定着していた。

・第3の可能性―インドの西海岸のポルトガル領居留地のどこかでヴァリニヤーノと合流した場合とか。

・弥助の名前の由来
弥助の出自について“弥助”いうのは外国の名前に漢字をあてたもので可能性の高いのが、“イサーキ(エチオピア名では“イサケYisake”、アラビア名では“イシャク Isaque”)でこの黒人侍の出生地がエチオピアで、彼の本当の名が“イサク”と示唆されると結論づけている。

本書は全編を通じて著者の「弥助」に対する深い興味と情熱を感じる。が、一方仮説、推論が多く文献・資料が限られているので消去法が多用され、結論を導き出すのに難渋している様に思われる。故に最後まで隔靴搔痒の感は拭いきれなかった。

2021.6.10
 SESCO 副理事長 深尾幸市

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