NGO SESCO 論考 NO. 11『ME ELTON JOHN / エルトン・ジョン自伝』を読む
NGO SESCO 論考 NO. 11
『ME ELTON JOHN / エルトン・ジョン自伝』を読む
筆者は季刊総合詩誌『PO』の特集記事やエッセイに、また教育雑誌『教育PRO』に書
評を継続掲載している。今回は恐縮ながら先月『教育PRO』( 3月16日号 )の書評縮小版
流用で悪しからず。
2000年1月、年末年始をハワイ・ワイキキ過ごした。カハラ・マンダリン・オリエンタ
ルのロビー・ラウンジで次男と飲んでいると数人の黒服ボデイガードを引き連れて近づい
て来たのがエルトン・ジョンだった。顔は青白く病弱風に見えたがその風圧は強かった。
圧倒。残映は鮮明だ。
本書の目次は、prologueからepilogueまでone ~ seventeen の17章、索引を含めて368頁
の大書。
表紙の裏にある。「ロンドン郊外の町ピナーで育ったレジナルド・ドワイトは、ポップ
・スターを夢見る内気な少年だった。両親が不仲の家庭は常に居心地が悪く、レコード収
集とヒットチャートを眺めることだけが心の拠り所だった。ピアノに非凡な才能を見せて
いたレグ少年は、やがて『エルトン・ジョン』に名前を変え、鮮やかなオーバーオールと
星をちりばめたTシャツに、翼付きのブーツといういで立ちで会場を沸かせるロック・ス
ターとなる。エルトン・ジョンの登場は、その後音楽の世界を劇的に変え、あらゆる記録
を塗り替えた。」「ソングライテイング・パートナー、バーニー・トービンとの運命的な
出会い。突然訪れた名声によって急激に変化する私生活。メデイアによるバッシングとの
攻防。ジョン・レノン、フレデイ・マーキュリー、ジョージ・マイケル、エリザベス女王
ら、数々のアーテイストやセレブリティたちとの親交。一方、華やかな栄光の陰でエルト
ンはドラッグ中毒に陥り、自殺まで試みた。」市井の一人筆者も75歳で「自分史」を発刊
した経験を持つがどこまで裸になれるか。海水パンツは脱げなかったがエルトンは実に赤
裸々に書いている。
・僕は1947年生まれ、実質的には戦争の落とし子だ。父さんが英国空軍の休暇中に、母
さんは僕を妊娠したらしい。父さんは17歳で母さんは16歳。
・我が家には祖母のピアノがあり、僕がピアノの神童と家族間で山ほど語り継がれた。
・11歳の時、セントラル・ロンドンの王立音楽院へ入れられた。その頃両親は離婚した。
・ゲイであることを最後に打ち明けたのは、母さんさんとダフーだ。ゲイだと告白しても
母さんは全然驚いていない様子だった。(中略)
・1975年10月ロサンゼルスでエルトン・ジョン週間が開催されウエンヴリー・スタジアム
では82,000人が集まった。ボーイング707をチャーターして母さんとダフー、祖母、大勢
の友達をイギリスから呼び寄せた。僕の成功を喜んでくれていた。が、僕がまたもや死の
うと決意した。大量のヴァリュウムと錠剤をひと山飲んでプールに身を投げた。
・1984年2月レコーディング・エンジニア、レナーテ・ブラウエルと結婚。僕は大量のコ
カインと一緒に一人きり部屋にこもることが多く離婚した。
・2005年12月デビッドと僕がシビル・パートナーになった日。生まれてからいちばん幸せ
だったと写真がある。
「僕はけた外れの人生を送ってきたし、今も送っている。後悔する部分もあるが、人生を
変えようとはまったく思わない。今の結果に心から満足しているから。 ― 男性と結婚し
、二人の子どもの父親になる。次は何が起こるんだろう?」この物語は、生きるレジェン
ドの桁外れの人生を、読者は味わうことが出来る。後は本文に譲りたい。(後略)
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文献 : 『ME ELTON JOHN / エルトン・ジョン自伝』
エルトン・ジョン 著 川村まゆみ 訳
( ヤマハミュージックエンタテイメントホールデイングス 2020.5 )
2021.4.10
SESCO 副理事長 深尾幸市